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利用者のコラム

男性 / 50代 / 脳性小児麻痺


少年期と障がい-見えない壁-

私は生まれつきの脳性小児麻痺です。父親と母親の深い愛情を受けて生きてきました。

小学校は養護学校で自分の障がいを意識したことはありませんでした。 病弱で、幼稚園は1年間で1か月も行けませんでした。 だから、あまり記憶もありません。

中学はそのまま特別支援学校に上がりましたが、このままでは将来が不安になり、1年生の時の自分から地元の中学に行きたいと 先生に願い出て中学1年生を2回行くことになりました。
学校に行くと私の身体が変とのことで、クラスメートから"注目"を集めました。 心無い人はいじめ、「きもー」と言われ、初めて自分が「障がい者」であることを意識しました。 毎日毎日いじめられ学校に行くのが嫌で嫌で仕方がありませんでした。8歳年下の妹が朝一緒にテレビを見て頑張ろうと思い学校へ行きました。

人間は良いことも悪いことも時間が経てば忘れます。しかし、いじめられた記憶はいつまでも消えません。 学校に行くのが嫌で嫌で仕方がありませんでした。
あまりの辛さに3学期に特別支援学校に戻ろうと思い、先生に相談しました。勉強もついて行けず、何のために学校に行くのかわかりませんでした。 テストで、何も書けないのでオール間違いで「オッペケペー」と変なあだ名をつけて笑われたりもしました。
特別支援学校とでは学力が全然違ったと思いました。

そういった日々を過ごす中、ある先生が「クラブ活動をしてみては?」と声をかけてくれました。 体育系のクラブであればついていけるような気がしたので陸上部に入部しました。 体育会系のクラブは練習に集中してすごく居心地が良かったです。

2年生になってからのクラス替えで、今までいじめていた人とも違うクラスになり、陸上部にも学年の中心になるような子が入部し、 親友になり、私はいじめられなくなりました。

社会に出て、私は転がり落ちた

せっかく親友になった友達も高校で別れ、私は私立の高校に進学しました。 また、いじめが始まりました。相手にするのも正直、疲れていました。
そんな高校でもいい先生はいるもので、私に数学の楽しさを与えてくれました。
私はすっかり数字の魅力にはまり、寝ても覚めても数学物理三昧、高校3年で全国模試で4番になり、 高校の3年間は数学三昧の生活でした。
しかし、英語がはさっぱりでした。

結局、進学をあきらめ、工場に就職しました。 現場は職人さんばかりで、当たり前ですが誰も仕事を教えてくれません。 健常者でも10年かけて一人前になる職場。

男ばかりの怖い職人さんでここでもいじめは続きました。

しかし、真面目に仕事に取り組んだ結果10年かけて一人前の職人になるところを5年で覚え 同期の友達が遊んでいる間に私は仕事ばかりしていました。

30代になって勉強がしたいと、一念発起して通信制の大学へ行きました。
勉強と仕事の掛け持ちは大変で、すっかり身体を壊してとうとう退職することになりました。

どん底を経験して再就職も出来ず受ける会社全て書類選考で落ちました。 更に就職難の時に股関節の手術で入院生活。
すっかり落ち込んでしまい、今度はお酒に逃げてしまい、入院するはめになりました。

強く、そして前を向いて自分と向き合おう。

そんな中、一筋の光が私を照らしました。

世の中捨てたものでもありません。あの「はやぶさ」が地球に帰ってきました。
映画にもなりました。これだと思いました。 宇宙をもっと知りたい。私はそう思いました。

そんな時に、今の社長に出会いました。「ここで勉強と仕事をして大学を目指しなさい」と言ってくれました。

どんな障がいも克服できることを知りました。アメリカやヨーロッパでは障がいを障がいとは言いません。 その人が持つ一つの個性です。
障がい者が自分に引け目を感じ引きこもっていては、誰もその個性に気づいてもらえません。 自信を持ってどんどん社会に出て行く時代です。

最近では心の病も障がいとして認めてもらえます。法律も社会も社会の弱者を救ってくれる時代です。
どんどん外へ外へ出て行きましょう。どんどん社会へ出て自分の存在を知ってもらいましょう。

自分が変われば周囲も変わります。私はそうして障がいを克服してきました。
今は与えられた仕事を正確にこなしていきたい。そして小説を書いてみたい。
今後は貯金をして、学費を貯めて放送大学に入学して、宇宙物理の勉強をしていく。 それが、私の未来だと確信しています。

はやぶさ